思いは千々に千切れる。ゆえに、日誌を記すとしよう。いつか我が身体が大地に還ったときにも、文字に残せば、触れる者もいるかもしれぬゆえに。
「殺すというならば、死ぬ覚悟もあるか」と、あれは言った。然りだ、と答えはしたが、しかしそれは真実であったか。死線を彷徨う中で生き汚く生きようとするボクに、本来の意味での殺す意志があったかと問われれば、それは怪しい。
蛮族は不倶戴天の敵であり、種としての融和が叶わぬこと、これは明らかである。されど、個としてのそれが叶わぬわけでもない。転じて言えば、人族にも我らにあだなす者はあり、それを我らは討ってきた。総体としての対立は、個別具体のそれとは異なる。その逆もまた然り。
道はなかったか。
わからぬ。ボクには、まだその道は見えぬのだ。蒙昧といえば、それはそうだ。レガート殿の言葉は真実であり、我らにはあれを生かす道はなかったとも思える。
しかし、アセリア殿は他者の未来を信じることを語った。その未来を見たかった、と思うことを、ボクは止めることができぬ。そのようなことは思っていない、と言えば、それは嘘になろう。
嘘はいかん。それは、いつかこの身体を縛る。
道を見ること。それが強さではないか、ということ。
弱い者には、道は必然として映る。されど、そうではない。宿命など、ありはしない。道は、ひとつではないのではないか。
ならば、ボクは、道を見る眼を求めよう。確かな眼を、そして、それを選び取れる強さを。
レヴィナス・バスターロードはこの日の弱さを忘れないということを。
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